【新規就農から3年】工場閉鎖という岐路に立ち専業農家に転身するまでの軌跡
昭和47年、私は大阪で生まで、大阪で育ちました。しかし、私のルーツは丹波篠山の農家にありました。幼い頃から、山菜採りや田んぼでの稲刈りといった自然との触れ合いがあり、その経験が後に私の人生に大きな影響を与えることになります。
高校卒業後、私は銅管の製造に携わる仕事に就きました。30年間、その世界で生き、多くの人々との出会いや経験を通じて成長していき、また野球を通じてチームでの活動も行い、そこでも多くの学びがありました。
しかし、40歳を迎えたある日、私の人生に大きな転機が訪れました。40歳の時に祖母そして43歳の時に父の連続する死去は、私の考え方や価値観に大きな変化をもたらしました。家業を継ぐという責任感や、土地を守り続ける使命感が芽生え、私は農業という道を選ぶことになりました。
農業に関する知識が全くない中、不安や迷いもありましたが、先祖代々続く土地を放棄するわけにはいかないという思いが私を突き動かしました。そして、工場の閉鎖という厳しい現実が迫る中、私は「転勤」するか「退職」するか人生の岐路に立たされました。悩み抜いた末、退職し専業農家として新たな人生を歩むことを決意しました。
その結果、「荒木農園」を設立し、第二の人生は農業に全力を注ぎ、先祖から受け継いだ土地を大切にし、地域に貢献していきたいと思っています。
自然豊かな丹波篠山での思い出
幼少期からの触れ合い
私の幼少期は、丹波篠山の農家での生活が大きな影響を与えました。家族のルーツが農家であることから、自然との触れ合いは日常的なものでした。特に、山菜採りや田んぼでの稲刈りといった季節ごとの農作業は、私にとって貴重な経験となりました。
春には山菜を求めて山に出かけ、新緑に囲まれた森で様々な植物を採りました。母や祖母と一緒に歩きながら、彼らから山の植物やその使い方について教わりました。それは単なる食材採取の行為以上のものであり、自然の恵みに感謝し、その大切さを学ぶ機会となりました。
夏には田んぼでの稲刈りが待っていました。その際、私は脱穀作業に参加し、刈り取った稲束を運んでいく作業に従事しました。決して楽な作業ではありませんでしたが、家族と協力し合いながら、農作業の一環として積極的に参加しました。このような作業は、私にとって自然の恵みを実感し、労働の大切さを学ぶ機会となりました。
これらの経験は、後に私が農業に関心を持つきっかけとなりました。自然との共生、家族との絆、そして労働の意味について考える機会を与えてくれたのです。それらの価値観は私の人生に深く根付き、農業への転身を決意する際に大きな影響を与えました。
30年間銅管事業に携わった会社員時代
工場労働者としての日々
高校卒業後、私は銅管の製造工場で設備オペレーターとして働くことになりました。その工場は、大きな機械が連なる製造ラインが特徴で、銅の塊を銅パイプに成形する上工程での作業が主な仕事でした。
私の担当は、機械にセットされた900度に焼かれた銅の塊を銅管にする上工程に所属し、製造ラインが円滑に動くようにすることでした。機械の操作は複雑であり、製品の仕上がりや品質に影響を与える可能性があるため、常に機械の動作を監視し、適切な修正を加える必要がありました。
作業中は、機械の振動や銅の塊を加工する音、そして熱気に包まれながら、精密な作業を行うことが求められました。加工された銅パイプの品質を確保するためには、正確さと集中力が重要であり、ミスを最小限に抑えるための努力が日々の作業に欠かせませんでした。
また、製造ラインのスピードが速く、作業が連続していたため、疲れや集中力の維持が難しい時もありました。しかし、チーム全体が協力し合い、効率的な生産を目指しており、その中での連携やチームワークが重要な役割を果たしました。同僚とのコミュニケーションや助け合いは、仕事の効率性だけでなく、職場の雰囲気を良好に保つためにも欠かせないものでした。
工場での労働は、機械音や環境の厳しさ、そして同じ作業の繰り返しによる変化のないことに退屈さも感じることがありましたが、その中で得た経験や技術は、私の人生において貴重なものでした。労働者としての経験を通じて、仕事の大切さや価値、そして責任感を強く感じるようになりました。そして、これらの経験が後に私の農業への転身につながることになるとは、当時の私には想像もできませんでした。
厄年を迎え40代へ 波乱万丈人生の始まり
家族の死と転機
私の人生に大きな転機が訪れたのは、40歳を過ぎた頃からでした。祖母が亡くなった時、私は長男として、後継者としての気持ちが芽生え始めました。祖母の死は私にとって、家族の伝統と責任を背負う重要な存在でした。私に丹波篠山の実家である農家の後継者としての使命感を再確認させることになりました。土地や家業を次の世代に受け継ぐ責任を強く感じ、父の後姿を次第に追いかけていきました。
父の後姿を追いかけ始めた43歳の時、父が急に亡くなり右も左も分からないまま実家に戻り、後継者として兼業農家としての新たな人生を歩むことを決意しました。父の死は、私にとって深い喪失感と同時に、家族や家業への責任を強く感じさせる出来事でした。実家に戻り、農業の道を選ぶ決断をする中で、父の教えや助言が私の心に深く刻まれ父の思いや信念を継承し、土地を守りながら成長していく決意を固めました。
そして、45歳の時には祖父も亡くなりました。祖父の死は私にとって最後の相談相手を失うと同時に、心の支えを失うことでもありました。祖父が生前、私に与えてくれた教えや助言は、私の人生に大きな影響を与えました。祖父の死後、私は母を頼りにして、この難しい時期を乗り越えていきました。家族の絆や助け合いが、私の困難な時期を乗り越える力となりました。母の支えを胸に、私は前進し、家族の伝統と責任を守り続けることをさらに決意しました。
波乱万丈の40代 新たな道への決断
兼業農家から専業農家への転身
私の人生に大きな転機が訪れたのは、48歳の時でした。その時、私が長年勤めてきた工場が閉鎖されるという突然の出来事に直面しました。工場が閉鎖されるという知らせを受けた瞬間、私の心にはさまざまな感情が渦巻きました。不安、混乱、そして何よりも将来に対する不確実性が私の心を覆いました。
しかし、この出来事がもたらしたのはただ不安だけではありませんでした。私の心の奥底には、新たな始まりが訪れることを感じていました。家族の死や農業への想いが交錯する中、私は退職を決断し、専業農家としての新たな道を歩むことを決意しました。この決断は容易なものではありませんでした。多くの考えや感情が入り混じり、悩みながらも、家族の伝統を守り、土地を守り続ける使命感と、地域社会に貢献する熱意を強く持ち続けました。
農業への未知なる道を歩みながらも、先祖代々続く土地を大切にし、新たな挑戦に臨むことにしました。「荒木農園」を設立し、農業に全力を注ぎ、地域の発展に貢献することを目指しています。専業農家としての新たな人生は、私にとって大きな挑戦ですが、家族の歴史や経験が私の背中を押してくれています。これからの農業経営に期待と希望を持ちながら、私の農業奮闘記は、地域社会にとっても重要なものになることでしょう。
歩み出して3年 「荒木農園」の成長と共に・・・
新たな一歩
工場閉鎖という厳しい現実に直面し、私は退職し、専業農家としての新たな人生を歩むことを決意しました。この決断は私にとって大きな挑戦であり、同時に新たな可能性が広がる一歩でもありました。
荒木農園を設立してからの1年目は、多くの苦難がありました。農業は私にとって全くの未知の世界であり、その厳しさに直面することになりました。天候の影響や作物の病気・獣害被害による収穫量の減少など、さまざまな問題に直面しました。特に初めての農業経営者として、農業技術や経営手法特に販売マネージメントに関する知識が不足していることが明らかになりました。
また、経済的な面でも不安がありました。工場労働者としての収入から一転して、農業の収益は不安定であり、生計を立てることが難しい状況でした。この時期には、私の家族も苦労しましたが、彼らの支えが私を励まし、前進させる力となっています。
しかし、諦めることなく、苦難を乗り越え農業技術の向上や新たな取り組みを通じて、少しずつ農園の運営を改善していくことができました。3年が経過した今は、荒木農園も徐々にみなさまに認知され始め、収益が安定してきました。農業経験の積み重ねや地域の支援により、私たちは農業の道を歩む中にいます。
新たな一歩を踏み出した今、私は将来に希望を抱き、地域社会と共に成長していくことを願っています。荒木農園の未来には、家族の歴史や経験が芽吹き、地域社会に新たな活力をもたらすことを感じています。私の新たな一歩は、地域社会にとっても大きな意味を持っていると信じています。